「プレイ内容はどうあれ人に見せたい」というリプレイ記事は、そのゲームをプレイしている人の存在証明になる、ルールやテクニックを考えるヒントになる、他のリプレイ記事を誘発するなど、効用がたくさんあるのでどんどん開示されるべき
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たかさわさんのツイッターのつぶやきでハッとした。
リプレイ記事は内容がどうであれどんどん開示されるべきだというもので、僕もこれに近い考えを持っている。
おりしも某誌のリプレイ記事がどうよと言う意見もあり、それ以前にも似たようなことがたくさんあったのでそういう意見を聞く度に、リプレイ記事とはなんぞやと考えることがある。
筆者の場合、気がついた方がおられるかどうかわからないけど、ある時点から自分のプレイ記をリプレイと呼ぶのを止めている。
これは何故かというと、リプレイという言葉にプレイの経緯を記することの他に再現性とか記録に裏打ちされた正確性を求められるような気がして、筆者の記事のように筆者が何を考えていたか、どういう雰囲気だったか、その幕間劇などというプレイ感をお伝えする記事はちょっと他の方のリプレイに比べてリプレイを名乗るにはおこがましのではないかと考えたからに他ならない。
筆者の記事の存在は価値があるかというと冒頭の意見のようにゲームをプレイしている人の存在証明になる、他のリプレイ記事を誘発するなどの効用があるにあてはまるのではないか。
いや、他のリプレイ記事を誘発する事はなくとも少なくともプレイしている人の存在証明になるのではないか。また人によっては何らかの効果があるかもしれない。筆者のブログ記事などはそういう効果を目的としたりもする。
で、リプレイの内容ですが、これっていつも素晴らしい判で押したような名勝負である必要があるでしょうか?
筆者の記事ではルールやプレイを間違えたなども極力書くようにしていますが、これは間違えた事実もまた必要情報ではないかと思う。
何かミスした、ルールを間違えたという事を含むリプレイ記事でもそのNGを取り上げる手法いかんによっては、面白い記事になったり先に挙げる有用情報なのではないだろうか。もちろん間違えやすいや疑問を持ちやすいとかの情報はプレイする事であらかた見えてくることもあるが、これって結局プレイするまでわからないことが多い。
商品の内包する欠点・欠陥を含めパッケージ化されてしまって「見えない」このホビーでは、そういう形で「見えやすく」風通しの良いモノにはならないだろうか。
もちろんネガティブな情報だけではモチベーションが下がるのでそれなりのバランス感覚は必要なのだろう。
また、プレイのコツ、例えば序盤の機動であるとか特徴あるゲームルールやシステムの紹介を兼ねてるモノは有用な情報ではないだろうか。ルールブックに折り込むという方法もあるが、雑誌付録ゲームなどはどうしても一期一会の時もあるので、雑誌添付の利点を最大限活かすには必須と言えるのかもしれない。
というかリプレイ記事は色々な手法とバリエーションがあっても良いのではないだろうか。
(ああ最初に戻っちゃった)
そんなことを薄ボンヤリ考えながらこの記事を書いているわけです。
もちろんお金を払っている雑誌の記事ではそれ相応の....と言うことも重々承知です。
WEB時代の雑誌とは立ち位置が難しいなあと思う今日この頃。
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